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礼拝のご案内です。
2021年8月1日
10時30分~
聖書個所:使徒言行録9:26-31
説教題:「敵だった者でも」
この聖書箇所では、サウロがエルサレムの教会で使徒たちと出会った様子が記されています。
サウロ、つまりパウロは、はじめキリスト者たちを迫害する者として登場しています。彼は敬虔なユダヤ教徒であり厳格で熱心な信仰を持っている人でした。彼はその厳格さによって、ユダヤ人でありながら律法を厳密に守らず、イエスを救い主とする者たちを捕え、裁いていました。
そのようなパウロたちの迫害によって、殺されてしまう者もいました。キリスト者たちにとって、パウロはまさしく敵だったのです。
この個所でも、はじめ弟子たちから信用されずに恐れられていたことが記されています。けれども教会はパウロを受け入れ、自分たちの仲間として受け入れていくのです。
このパウロの働きによってキリスト者たちは異邦人伝道に励み、多くの人々がキリストを受け入れ、キリスト教へとなっていくのです。
私たちの信仰は、こうした敵をも受け入れる土台の上に成り立っている信仰です。パウロがいなければ今のキリスト教はなかったと言ってよいでしょう。異邦人伝道も活発に行われなかったかもしれません。私たちの教会にとって大きな転機となったのは、間違いなく敵対者であったパウロを受け入れたことです。
そして、このパウロを受け入れるという出来事は、私たちの信仰の根幹を表すものでもあります。敵を愛せと語り、互いに愛し合いなさいと教えたイエスの御言葉を守ることでもあるのです。
当時の弟子たちにとって、パウロはかなり恐ろしい人物であったことでしょう。自分たちを迫害し、捕えていた人物です。その活動の中で、兄弟たちが殺されてしまうこともあったのです。キリスト者たちにとっては自分の家族を殺した人物を、新たな家族として受け入れ愛することを迫られる状況だったのです。
けれども人々はパウロの信仰を認め、彼が変わったことを認め受け入れたのです。受け入れるために大きな苦悩があったことでしょう。キリスト者たちにとって、パウロを受け入れる決断は、非常に大きく思い決断だったことでしょう。
果たして私たちは、当時の彼らのような決断ができるでしょうか。自分たちを苦しめ、傷つけた人を、自分たちの仲間として受け入れることができるでしょうか。私たちの内にはきっと、回心したとはいえ受け入れることに抵抗を覚える気持ちが出てくることでしょう。
けれども私たちの信仰においては、それでもその人を信じ受け入れるという事が必要になってくるのです。自分が受け入れることができないと思っていた人を、信仰のゆえに受け入れるという事が必要とされるのです。
自分にとって敵対する立場にある者だけではありません。自分にとって受けいれられないような立場あるものだったとしても、同じ信仰を持つものとして受け入れていくのです。
キリスト教には、パウロのような敵対者を受け入れ発展した事実がありながらも、受け入れられない人々を排除していった歴史もあります。しかしそれは、本来のキリスト教のあり方とは異なるものです。
たとえ敵対者であっても、たとえ立場が異なるものであったとしても、信じ受け入れようと努めなければならないのです。
相手が同じ道を歩みたいと望むのであれば、私たちはそれに抵抗し拒むのではなく、喜び受け入れるのです。互いに愛し、受け入れる関係を求めていくのです。
私たちは、平和を求める者であることを忘れてはなりません。自分だけで良い、自分たちだけが守られれば良いという考えではなく、平和を求める者たちがすべて平和に暮らせるように、各々が努めなければなりません。敵対してした者を受け入れない、過去の恨みつらみによって拒む、立場が違うものを理解しないなどという短絡的な立場から脱却しなければなりません。私たちだけの平和を求めるのではなく、すべての人にとっての平和を求めていかなければなりません。
敵を受け入れるという事、すべての人にとっての平和を目指すということは、現実的でない、現実を見ていないと言われることもあります。けれども私たちの本当の現実は、目の前に一人の人がいるということ、敵であろうとも、立場が違う者であろうとも一つの命であり、私たちと同じく存在するものであってどちらかだけが特別ではないという事です。現実に目を向けるのであれば、私たちはすべての人が平和に暮らせる道を求めることをあきらめるわけにはいかないのです。
敵をも受け入れたキリスト者たちに倣い、私たちも平和を求めていきましょう。