新型コロナウイルスの脅威はまだまだ続いています。不安と恐れの中にいる人々、苦しみ悲しみの中にいる人々がいると思います。また、大雨による被害に苦しんでいる人たちもいます。癒しと平安、慰め、そして皆様の安全と健康を祈ります。
礼拝のご案内です。
2021年8月8日
10時30分~
聖書個所:使徒言行録20:17-35
説教題:「苦難にもひるまず歩む」
この箇所においてパウロは、伝道における苦難を予告しつつも、その苦難にひるむことなく福音を延べ伝えることを語っています。パウロの働きのために彼自身が苦しむことを理解しながらも、福音を延べ伝える働き全うしようとするのです。
パウロだけが苦難を経験したわけではありません。当時のキリスト者たちは迫害の中福音を延べ伝え、苦難の道を歩んだのです。
けれども彼らは苦難に対してひるむことはありませんでした。多くの苦難があったとしても、福音を伝えることをやめませんでした。むしろ彼らの使命として伝道を行っていったのです。
私たちにとっても、この世においては苦難が多くあります。その苦難の中にあるとき、私たちはパウロたちのように歩んでいけるでしょうか。
私たちのこの世の歩みの上には、どうしても苦難というものが降りかかってくることがあります。日々の生活において、仕事において、学校において、人生の選択を迫られる場面において、病やケガなどによって、家庭など、様々な場面において苦難が起こるのです。
その中には乗り越えられる苦難もあれば、乗り越えることができない苦難もあります。誰もが、できれば苦難を避けたいと願うことでしょう。
世の中には、信じることによってこの世の苦難が消え去り、自分にとって良い事ばかり起こるようになると教える宗教もあります。しかしながら、私たちの信仰は、信じればこの世の苦難が消え去るというものではありません。たとえ信じたとしても、苦難はあるのです。
私たちの信仰においては、苦難があったとしても、それが私たち自身の不義や不徳によるものとはなりません。そして、信仰深ければ苦難が去っていく、信仰を持っているから苦難がなくなるというものでもないのです。
クリスチャンになれば苦難がなくなるわけではないのです。私たちは、楽になれるから、苦難から遠ざかることができるからこの道を選ぶわけではありません。むしろこの世には苦難があるということ、この世は苦難が多く、避けることが難しいことも多いのだということを知らなければなりません。
この世は苦難が多く、それが避けられないという中で私たちがどう歩んでいくのかが大切なのです。避けることが難しい苦難を前にして心が折れてしまうこともあるでしょう。
しかし、苦難があったとしても、私たちはひるまずに歩んでいけるのです。それは、私たちが神の愛を知っているからです。信仰があるから、ひるまずに歩んでいけるのです。この世において、どのような苦難が待っていようとも、私たちは神から愛されている存在なのだと知っているのです。
どんな苦難があっても、私たちの罪が赦され、救われていて、神の御国に入る者とされていることには変わりはないのです。私たちは、この福音のゆえに、喜びのゆえに、苦難の多いこの世を歩んでいけるのです。
私たちがこの世の苦難に直面するとき、イエス・キリストによって示された福音は、私たちの大きな支えとなります。苦難があっても、ひるまずに歩んでいけるのです。
そしてその道は、私たち自身のことだけを考えていけばよいという道ではありません。苦難を前にして自分のことだけを考えれば、他の誰かのことを考えることなく軽視してしまったり、自分を守るために傷つけてしまうことさえあります。
私たちは、自分のみならず、他者とも共に歩むということを忘れてはなりません。苦難の中でもひるまずにこの道を歩んでいくということは、自分だけではなく、他者のことも大切に考えるということでもあります。自分だけが大切な存在なのではない、自分だけが愛されているのではない、すべての人が神に愛されているのです。だからこそ私たちは、神の愛によって救われていることを知り、その神の愛に支えられるのです。
私たちの信仰において、私たちが他者のために働くことが勧められています。
それもまた苦難の多い道でしょう。けれども私たちは、苦難が待っていようとも、苦しみ、弱くされている人々と共に歩むのです。私たちが愛されているわけではありません。すべての人が神に愛される大切な存在なのです。
皆が共に歩む道、それは自分一人が歩む道よりも苦難が多い道でしょう。けれども私たちは共に歩む存在です。どれだけ苦難が多くともひるまずに歩んでいきましょう。私たちは神に愛されるものであると同時に、神の愛を伝える者でもあります。ひるまずに神の愛を伝えていきましょう。それは苦難の道でも、私たちにとって果たすべき働きなのです。